親の介護やお仕事で、認知症の方と関わったことのある方は、認知症の方の介護がいかに大変かをご存知だと思います。
今まで物静かだった人が大声を上げるようになる…
今まで傲慢だった人が穏やかになり物静かになる…
その他にも、時間や場所がわからなくなる、理解力や判断力が低下する、身の回りのことができなくなるなど、認知症の症状は人それぞれ異なります。
しかし、スピリチュアル的には、そこに意味があり「その人がこれまで生きてきた想いが現れる」とされています。
ここでは、そのあたりの内容も含めながらお話をさせていただきたいと思いますので、イメージを膨らませながらお読みいただけますと幸いです。
認知症の症状から隠された想いを知る
スピリチュアルでは「認知症の症状を見れば、その人がこれまでどのような想いで生きてきたか分かる」とされており、「人の表面的な部分ではなく、内面的な部分が表に現れるようになるから」という理由が関係していると考えられます。
駄々をこねたり暴言を吐くようになる
例えば、寡黙でドッシリと構えていたお爺さんが、認知症を発症してから駄々をこねるようになったり…
いつもニコニコして笑顔可愛かったお婆さんが、認知症を発症してから「バカ!」「死ね!」等、これまで吐いたことがない暴言を吐くようになったり…
認知症を発症してから、人格が変わることも少なくないそうです。
実は、こうした症状が現れるのは、その人がこの人生を生きてきた中の「苦しみ」や「これまで我慢してきたこと」の現れだと言われています。
例に挙げた寡黙なお爺さんが、駄々をこねるような症状が表れたのは、これまで寡黙でドッシリと構えているように見えたのは表面的な部分で、実は奥底で「我慢」をしていたからかも知れません。
認知症により、我慢のたがが外れて、駄々っ子のようになっているのであって、心に秘めていた想いが現れていると言えます。
それと同じように、いつもニコニコして可愛かったお婆さんが、「バカ!」「死ね!」などと暴言を吐くようになったのも、ニコニコしていたのは理性があったからで、文句を言わずに我慢をしてきた現れであると言えます。
このようなお話をするとご家族様としてはとても複雑なご心境を抱かれると思います。しかし、私も含め「多くの人が何かしらの我慢を抱えながら生きている」これが自然であり、言い換えるならば「我慢=思いやり」と言えます。
もし、私が何も我慢をせず自由奔放に生きていたら…たくさんの人を傷つけ、幸せを感じる家庭を築くこともできなかったでしょう。
ですので、あまり「我慢」ということに対してネガティブに捉えないようにしてくださいね。
中には、姑、小姑、夫と、身近な人から我慢を虐げられる環境で生きてこられた方もおられると思いますが、「誰もが我慢を抱えながら生きている」と考えますと、認知症によって上品だった人が180度正反対の性格になり、狂ったように暴れ始めたりするのは自然の流れと言えるかもしれません。
食事やお金へ執着するようになる
認知症を発症して食事への執着が強くなる場合、これまでの人生で、満足に食べられなかったことがある人に多い症状だと言われています。
そして、お金を隠したり盗んだり、お金に対する執着が強くなる人は、それだけお金で苦労してきた経験がある人だと言えるようです。
もちろん、必ずしも当てはまるとは限りませんが、認知症の症状は「人生の中で苦しかった自分の想いを示している可能性が高い」と考えられますので、一方的に執着をやめさせようとするのではなく「どうやって心を満たしてあげるか」という気持ちを向けてあげた方が、認知症の方の心を鎮めることができるかもしれません。
又、認知症の方の気持ちを想像することができると、介護する側も感情が安定し、無理なく寄り添うことができると思いますよ。
徘徊する
徘徊してしまうのも、上記と同じで「これまで我慢してきた願望の現れである可能性が高い」と考えられ、「縛りつけられた生活の中から逃げ出したい」というお気持ちを持っていたのかもしれません。
認知症になった人は不幸なのか?
認知症の人をはたからみれば「ボケて可哀想に…」と思うかもしれません。実際、私もそういう言葉を耳にしたことがあります。
しかし、介護されている当人は、果たして本当に不幸だと言えるのでしょうか?
私は「(本人にとっては)100%不幸なことだとは言い切れない」と思います。
認知症で人格が変わるような症状が出る人というのは、本人にとってそれだけ苦労の多い人生だったと言えます。
認知症になり、これまでの苦悩から解放され、やっと本来の自分を出せるのですから、本人にとって心の安らぎになっている可能性も否定はできません。
そして、認知症により幸せだった頃の記憶にタイムスリップをして、当時の感覚を取り戻しているということもあるそうです。
認知症の症状は、消化しきれなかった部分の現れですし「想いを浄化」することにも繋がります。(暴言を吐くようになり、これまで溜めていたうっぷんを晴らすという意味では、想いを浄化していることにもなります。)
又、表面上だけを見れば「不幸な出来事」と感じるかもしれませんが、認知症により、死への恐怖から解放されるのも、認知症を発症した本人にしてみれば幸せなことではないでしょうか。
認知症はあの世でも続くのか?
認知症の症状は、肉体があって起きることですから、肉体を失った時点で認知症の症状もなくなります。
よって、認知症が原因でこの世を徘徊することもなければ、認知症を発症したままの霊もいません。
認知症は肉体あっての症状であり、肉体のない亡くなった状態では、記憶も戻りますし、家族のこともちゃんと認識できるようになります。
亡くなってあの世へいっても、同じ症状が続くことはありません。
この世で娘がわからなくなったとしても、あの世ではちゃんと娘を見守っています。
認知症の症状まとめ
認知症は、認知症を発症した人の隠してきた感情や、想いを知るきっかけにもなります。
家族に認知症を発症した人がいたら、今まで通りの生活が出来なくなり嘆きたくなるでしょう。
しかし、認知症の症状には意味があると理解できれば、少しでも優しく寄り添えるのではないでしょうか。
介護は本当に大変だと思いますが、その頑張りはいつか自分に良い形となり返ってきます。
介護か結婚に迷ったときどうすべきか?
「結婚したいけど、介護が必要な親を残して家を出られない。家ではなく施設にいてもらった方が、子供としては安心。でも、施設は・・・」
このような境遇で悩んでいらっしゃるなら、 どのように考え、どう結論を出すべきかの参考になるかもしれません。以下、一つの事例を挙げながらご説明をさせていただきます。
例)
兄弟がいるものの、皆家庭を持ち出ていってしまった。家に残っているのは年老いた親と自分の2人。
こんな状況の時に結婚相手が見つかり、新居で結婚生活をスタートさせようとしていた矢先に、同居していた親が倒れて介護が必要になってしまった。
「結婚は諦めるしかないのか…」
こうした悩みは、本当に深刻だと思います。
しかし、こうした事態に陥ることを予測していれば、不測の事態を乗り越えることができるのではないでしょうか。
親が老いていることは、今始まったことではなく、いつかこんな日が来ること予測できたはずです。
いざ親が倒れ、アタフタしてしまい打つ手がないというのは、不測の事態に備えた準備をしてこなかった因果とも言えます。
厳しいことですが、そうなることも視野に入れ日々を過ごしてきたのなら「結婚を諦めるしかない…」という結論には至らないでしょう。
これまでの自分の至らなさを反省することもなく「どうせ私は結婚できない運命なの…」と嘆いても状況を変えることはできません。
日頃から考えていないから、いざという時に対処できない…これは因果応報です。この世とは、そういった厳しい場所です。
私も準備を怠り失敗したと思うことがあるので耳の痛い話ですが、自分の身に起こることはすべて自己責任と受け止めなければなりません。
覚悟を決める
親の介護をするなら、それはそれで腹を決めなければいけません。
介護をしながら「自分は親の犠牲になってしまった…」と後悔して介護をしてもロクなことになりません。
そんな後悔をするくらいなら、施設を視野に入れたり、兄弟に面倒を見てもらえないか駆け寄ったりという努力をまずはしてみるべきです。
「いやいや、親の面倒を人に任せて自分だけ幸せになることはできない」と思う気持ちが強いのであれば、自分で決めた道だと腹をくくり、結婚を諦める覚悟を持たなければいけません。
何よりいけないのは中途半端に腹をくくり、不平不満と後悔の毎日を送ることです。「親の犠牲になるのではなく自分が後悔しない為に親の介護をする」と決意できるかどうかが大切だと思います。
中途半端に腹を決めると「結婚の話を諦めてまで介護の道を選んだのに…」「親の介護よりも結婚を選んだのに…」などの思考を抱くことになり、そうしますと必ず不幸になります。こういう後悔は、良くありません。
後悔をしないよう、何かを決断するときは中途半端な気持ちではなく、腹をくくって決断するようにしてください。
結婚相手の理解を得る
もう一つは、結婚相手に事情を話し一緒に面倒を見てもらうか、結婚の時期を遅らせてもらうかなど交渉することです。
結婚しなくてもお付き合いを続けることは可能ですし、親の介護が終わってから一緒になるという選択肢もあります。
こんなことを言うと「事情を話しても相手は待ってくれません。逃げられます。」とおっしゃる方がいると思いますが、冷静になって考えてみてください。
事情を話して逃げていく相手をどう思いますか?
愛する人の親が倒れて、介護を要する時に「そんな面倒に巻き込まれるくらいなら別れる」という相手と一緒になって、幸せな結婚生活を送ることができるでしょうか。
一緒に面倒を見てくれることは無理でも、待つことはできるはずです。
それすらしてくれない相手は、自分のことしか愛せない自己中心的な人物と言えます。
本当にあなたのことを愛しているのなら、こんな理由で別れを切り出すはずがありませんし、あなたの背景にあることも含め、受け入れる覚悟を決めてくれる人でなければ、結婚をしても幸せにはなれません。
やっとの思いで結婚相手を見つけたとしても、理解の得られない相手であれば、むしろ結婚しない事は正解で、介護の事で相手の本質を見抜けてよかったというべきです。
施設への罪悪感は不要
四六時中、親の介護が必要になった時、果たして仕事を辞めてまで親の介護をすべきか…悩む方もおられると思います。
施設に入ってもらうか、自分が仕事を辞めて介護をするかの選択で迷った時…
世間体を気にすれば施設に入ってもらうことは、人として冷たいことだと捉えられるのかもしれませんが、私はそのようには思いません。
仕事を辞めたり減らしたりして、経済的に追い込まれてしまえば共倒れになってしまいます。その時に、冷ややかな目で見ていた人達が助けてくれるわけでもありません。結局、頼れるのは自分です。そのことを考えれば、世間体よりも現実的にどうするのが良いかを考えなければなりません。
家庭の事情は様々で、経済的な事情も様々です。それを第三者がとやかく言うのはおかしなことで、結局のところ第三者は他人事です。
考えなければいけないのは「現実的にどうか」ということ。
感情に流されるのではなく、理性的に考えた結果、最善だと思われる道を選ぶこと。
そうすることで、正しい判断ができるのではないでしょうか。
今の時代で考える
高齢者の方々の世代と、今の時代は違います。
施設に入るとことを「施設に入れるなんて親を捨てる気か!」とおっしゃる方もおられますが、今はそんな時代ではありません。
苦労して義母や義父の面倒をみてきたという話は、私も幾度となく聞きました。その時代を生きてきた方達にしてみれば、施設に入れることは親を見捨てることだと思うのもわかります。
親の意志に沿うのが子供達の義務であるかのように刷り込まれてきた時代であった為、無理をしてでも面倒を見るのが当たり前だと思われるかもしれません。
しかし、時は流れています。
昔と違い今では、施設に入ることが幸せだという時代へ変化しています。
現に、お金さえかければ優雅な生活を提供してくれる施設もあります。「施設は姥捨山」というイメージは払拭され、親の介護に追われる時代は変わろうとしています。
親を大切にすることはとてもいいことですが、大切にするのと言いなりになって甘やかすのは、意味が違うことを子供の立場としても知っておかなければなりません。
親のことを思うのであれば、甘やかすだけではいけません。時には、親の自立を促すためにも突き放すことが必要です。
面倒くさいとか、うっとおしいという理由で突き放せば、それは悪い種を蒔くことになるので感心できませんが、親の成長を願い自立を促すために突き放すのなら、さじ加減を間違えることもないでしょう。
この世に生きている時は、その意図が伝わらなくて反感を買うかもしれませんが、本当に親を想ってしたことならあの世に還った時にその意図も明白に伝わります。例え今は恨まれることであっても、その誤解はいつか解けます。
古い思想を重んじるのも大切な場合もありますが、時代は流れています。今という時代を生きているのはこの時代ならではの学びがあるからです。
新しい良き思想を取り入れて、今の時代だからできる学びをしていくことが私達には必要ではないでしょうか。
介護をされる側からすると、「自分の介護で家族に負担をかけたくない」「家族に迷惑をかけたくない」と考えるかもしれません。
介護する側にも、それぞれの人生があるのに、その足を引っ張るくらいなら、私は施設で新たな人生を歩むことを視野に入れると思います。
現に、施設に入所した方は「辛いのは家族に迷惑をかけることだった。家族をイライラさせる原因が自分にあり、施設に入ってホッとした」といった意見も多くあるそうです。
介護をするのは本当に大変なことだと思いますし、感情的になってしまうこともあると思います。そして、介護される側も、他人には素直に「ありがとう」が言えるのに、家族だと言えないこともあります。
介護する側、される側にとって施設に入ることは決して悪いことだとは思いません。また、施設に入ってもらうことに罪悪感を感じることもありません。
「自分のことは自分でする」という心構えは生涯必要です。
時が来たら自ら施設に入所できるようにお金を貯めておく!子供を当てにしない!そうすることで、老後ならではなお楽しみを味わうことができると思います。
人をあてにする人生で道を切り開くことはできません。
先を見越して計画的な生き方をすることで人生を切り開いていくことができます。
そして、人をあてにしていなかったのに寄り添ってくれる人ができたのなら、その時は心からの「感謝」が生まれるのではないでしょうか。
老後のことは誰もが不安に思いますが、その時が来てもいいように元気なうちから、ご家族で話し合い準備をしておきましょう。
介護をされている方の魂の学び
自分以外の兄弟がいるにも関わらず、なぜか自分が親の介護を請け負っているという方もおられると思います。
そういった方は、親の介護を経験する役目があったり、魂的に親との縁が深いのだと思います。
自分がどうしてもやらなければならないのなら、そのことを受け入れて全うするしかありません。それが歩むべき道です。
全うすることが課題になっている場合、最後までやり切った暁には、必ずご褒美があります。
人の世話をするというのは良い種を蒔くことになりますので、それをやり遂げたら綺麗な花が咲き、これまでの苦労は必ずプラスとなって返ってきます。
「そんないい未来があるはずがない…」と思っていても、一寸先は闇と言われるように、何があるかわからないのが人生です。
「やり遂げた暁には何かしらご褒美がある」とポジティブに受け止めるようにしましょう。