いじめる人はなぜ幸せになれないと言えるのか?
いじめる人にはどんな学びがあるの?
というお話をさせていただきます。
結論から申し上げますと、いじめる人は幸せになれませんし、いじめられる痛みを知るという学びがあります。
いじめているのにいじめられる痛みを知る?
どういう事でしょうか?
その意味を詳しく説明させていただきます。
いじめられる為にいじめている?
いじめている人はいじめられる痛みを理解していません。
しかしこの世には因果応報があるので、いずれいじめられる痛みを知る事になります。
因果応報により必ずいじめられる経験をしますが、それが今世とは限りません。
今世でなければ来世になります。今世で気づけなかった人は来世に課題が持ち越されます。
ですので、生まれ変わってでも、いじめられる経験から逃れることはできません。
因果応報がある限り、いじめている時点でいじめられることが確定します。
よって、いじめをおこなう人は、いじめられる為にいじめているという結論に至ります。
いじめる人がいじめられ改心する流れ
いじめる人は、最終的にいじめられる痛みを知る為にいじめをおこなっています。
いじめる人の意思に関係なく、それが真理になります。
いじめをいけない事だと知り、深く改心するには、いじめられる痛みを知る必要があります。
よって、いじめる側、いじめられる側の二つを経験する事になります。
どのような流れになるのか見ていきましょう。
【いじめる人が改心する流れ】
■いじめをおこなうのはなぜ?
「いじめられる痛みを知らないから」
■いじめるとどうなる?
「因果応報でいじめられ、いじめられる痛みが分かるようになる」
■いじめられるとどうなる?
「いじめられる痛みを知り改心する」
こうした流れを経験して人は成長していきます。
いじめをおこなう人は、いじめられる痛みを知らない無知が原因となっています。
因果応報でいじめられ、はじめていじめはいけない事だと反省し、改心していきます。
いじめの因果応報の対象になる人
「人の痛みが想像できないからいじめても仕方ない」
そんな言い訳はお天道様に通用しません。
確かに、ものの分別がつかない乳幼児であれば、因果応報の対象になりません。
物心の付く年齢になれば、人の痛みが分からない人でも、どうすれば人を傷つけるのかわかりますよね。
わかってやっているというのは確実に因果応報の対象です。
「憂さ晴らしをしたい」
「イライラする欲求を解消したい」
「優越感に浸りたい」
「うらやましいから腹が立つ」
等々、いじめる理由は様々ですが、そのほとんどは身勝手な考えの下でおこなわれます。
自分の欲求を満たすためにどんな手で懲らしめてやろうか…
と考えるなど言語道断なのですが、その未熟さに気づくためには、いじめられる経験をしなければなりません。
いじめられる経験をするためにいじめるをする…
だからといっていじめを肯定している訳ではありません。
しかし、この繰り返しがこの世ではおこなわれ、いじめられる痛みをすべての人が知るまでいじめはなくならない…というのが真理だと思います。
確実に言えるのは、いじめている人より、いじめられる痛みを知った人の方が確実に人格者であるということ。
魂の視点では、いじめられている人の方が成熟した魂です。
いじめている人は、魂としても、人としても幼いと思っていて間違いありません。
いじめ気質な人は幸せになれない
いじめられる立場になると、いじめている人が憎いと思います。
しかし、いじめをおこなう人は、いじめて憂さ晴らしをしなければならない程、心が荒んでいます。
心が荒んでいる状態が幸せなはずがありません。
いじめている時点で幸せではない事を露呈しています。
それに、いずれいじめられる為にいじめをしているわけですから、将来苦しむのは目に見えています。
いじめをする人は、人に相手にされなくなり孤独になったり、嫌われ者になりやがていじめられます。大きな病気やケガをして弱い立場にある人の痛みを知る事もあります。
また、いじめをしなければならない荒んだ心が精神をむしばみ、社会に順応できずに真っ当な人生が歩めなくなる人もいます。
これらは、いじめをする人に訪れる因果応報です。
よって、いじめる人が幸せになれないという結論に至ります。
いじめは未熟者が成長する過程
いじめをする人は不幸になりますが、逆に、いじめられる痛みを知った人は社会に出で成功したりします。
いじめは決して許されることではありませんが、魂の成長、人格向上の為にすべての魂が通る道。
いじめの愚かさに気づいたら悔い改めやり直しましょう。
一人でも多くの方がいじめの真理に気づき、いじめが無くなることを願います。